近江アカデミー施政方針 言語パロール観へのパラダイム転換を図る 音読レシテーションスピーチ指導・英語コミュニケーション教育・近江誠

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言語パロール観へのパラダイム転換を図る

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言語パロール観へのパラダイム転換を計る

―改革論自体がま・と・は・ず・れな日本の英語教育に対処すべくー 

皆様こんにちは

私は今更、話せない英語教育だからどうせよなどと青臭いことを申し上げるつもりはありません。
私がいいたいことは、今の日本は、こうしたほうがいいと言われる改革論自体が往々まとはずれであるということです。
まとはずれな改善論の発生源としてはまずは、企業人はじめ、一般人、言語教育とは関係のない評論家などの門外漢(素人)がいます。無視すればいいとはいうものではありません。風評被害というものは確実にあるからです。しかし影響力が最も大きく、「改革案」をすでに実践という形で現実化して、この瞬間にも影響を与えている人々は、むしろ意外な方達なのです。それはなんと専門家(玄人)であるはずの文科省などに提言している英語系の大学教員という存在なのです。

英語が話せない大学の英語教育改革論者!?

まずは大学教員たちの英語コミュニケーション力そのものです。いいにくいことではありますが、決してそれは高いものではありません。この中には英語教育改革論者の多くが入っているということを世間一般は知りません。
「週刊現代」が以前、ある英語の教育学会で英語の発表には英語の質疑応答をせよと要求したら途端に沈黙の学会になってしまったという記事をあげていました(平成23年11月5日号 71頁)。
これはまごうかたなき事実です。つまり英語学者の間にも、ピカソやゴーギャンの画風についての小むつかしい論文は書くが、デッサンひとつ満足に描けない美術家の教授と同じような構造が明らかあるということです。私は内部から見ていたし、別の学会の会長職にもいて比較できましたからよくわかっています。
ある国際大会でのあの夜の晩さん会での日本側代表のすさまじい英語は、それだけで日本の英語教育改革がいかに口先だけであるかを海外に知らしめてしまったとそこに居合わせた日本側の学者たちの語り草になっています。しかしです。この夜の主役を含めた人々が中心になって、さまざまな英語教育政策が現実化されているということを一般の日本人は知りません。だいたい、自分がダメだったから小学校から英語をすればうまくなるはずずだ、授業をすべて英語でやればうまくいくはずだ、その他あげはじめたら枚挙にいとまない素人考えと同じ考え方をする、素人はだしの玄人が大勢いることをはっきりと指摘しておかなければなりません。

根本原因はその言語ラング観偏重である

言語観には意味をどう捉えるかによって大きく二つにわかれます。
ひとつは<言語制度説(言語ラング観)>。これによれば言葉の意味は、その言葉の中に「決定ずみ」のもの(制度)として存在すると考えるものです。もうひとつは<言語パロール観>。これは意味というものは、言語の内部にすでに存在しているのは一部であり、多くはむしろその使用者(=語り手)が、特定の語り手を意識し、ある時と場所からある思いを込めて与えるものであるという言語観です。ごく単純化していえばそういうことです。
西洋社会の根底にある二元論というものがあります。敵か味方か、月を取るか私を取るかの二元論が、西洋化の波と共に人間の思考に影響を与え始め、言語関係者の頭脳が、どうしても書き言葉と話ことばに分割してしまいます。彼らの多くはエリートですがそのエリートであったぶんだけ、時代の言語観ラング観偏重をしっかりと内質化させてしまっています
この言語制度観に憑りつかれると、文章の中の背後に語り手がいて、相手と、時と場所、目的、内容、様式がテキストに内在するものであるという意識がどうしても後退してしまいます。ですから、膨大なる宝の山を前にして、内容や思想について論ずるだけで、話者や文脈と切り離した語法プロパーに関心がいき、そのように話してみるとか書いてみるということなど思いもよりません。詩、散文、ドラマ、随筆、評論文、入試の長文などもすべての文字テキストによる素材は、どれでも“食していい素材”なのにもかかわらずです。仮にその事実に目覚めたとします。こんどはそれをどう料理していいのかメソッドを持ち合わせていません。ということは結局、その分だけ自身の入力が乏しくなります。言語入力がとぼしければ豊かな出力は望みようもないということになります。

つまりは英語系の大学教員が言語ラング観への偏重という「思考の形」の桎梏から逃れられないままに、みずからを″話せない英語教員”状態に停滞させているのです。 さらにそれに対する自己振り返りもないままに国を通して歪んだ″改革案”を現実化させ、同時に自分のミニ版である英語教師を年々生産していて、不毛の連鎖は絶えることなく続いているということです。

スピーチ・ドラマ学の訓練―言語パロール観への軌道修正を願ってー

言語ラング観偏重を是正し、言語パロール観への切り換えをしていくことーー
抜本的な改革というならまさにここにかかっています。その土台にある母学問は、古代ギリシャローマより脈々と続いている「スピーチ・演劇学」(あるいは「スピーチとレトリック」)などの呼称がある)であるというのが私の年来の主張です。
この領域にはが1)スピーチ、2)ドラマ、3)オーラルインタープリテーション(音声解釈表現法)、4)ディベートというスピーチ訓練4点セットがあります。これらは学際的(=interdisciplinary)な領域といわれ、役所の窓口のような縦割り扱いとはまったく相いれない相互補完的な学問・実践領域です。但し外国語教育の為の学問体系ではもともとありませんから、我々の目的に合うようにフォーマット転換を図り、従来の英語教育に取り組んでいく必要があります。
私は、高校教員時代に「どのように英語教育に生かすか」というテーマを抱えてフルブライト留学生として二つの大学で学び、帰国してからそれに全力を注いできました。大修館書店の『オーラルインタープリテーション入門―英語の深い読みと表現の指導』であり、研究社出版の『頭と心と体を使う英語の学び方』『英語コミュニケーションの理論と実際―スピーチ学からの提言』、文藝春秋の『感動する英語!』『挑戦する英語!』を挟んで小学館の『間違いだらけの英語学習』で、その時点までの実践をまとめました。
近江アカデミーでは、上の広大なるパロール言語教育の中で、どうしても広まっていかなければならないこととして以下の訓練に集中していくつもりです。

近江アカデミーでは、“近江メソッド”による訓練を展開していきます。
内容:主としてモノローグ素材に対して、コミュニケーション的精読である ″批判的味読“をOral Interpretation を通して行い、理解を深めつつ素材を刷り込む。さらにモード転換訓練で発話につながる豊かな英語入力の完全内質化を図る

豊かな出力には豊かなる言語入力が不可欠です。
その方法として私は(1)多聴、(2)口真似、〈3〉多読、(4)オーラルインタープリテーションとモード転換の四つを主張してきましたが、なんといっても英会話ゴッコを超える骨太な英語コミュニケーション能力を獲得していくためには(4)のオーラルインタープリテーションからモード転換による言語入力をしていかなければなりません。
そこでアカデミーでは近江メソッドと紹介された、日本人の英語学習の最大の真空地帯である(4)を集中的に行い、英語教員の方々にこの訓練を身につけられ発信力をアップさせながら、その方法を教室に持ち帰っていただきたいと思って活動を続けてきました。

扱う素材は、殆どの日本人学習者が読んで意味を理解する対象と思っている通常の文章が、すべて「そのようにしゃべる!」という視点から見直されます。 しかし中・高の教科書などにあらわれる文章はコミュニケーション目的からするとフォーカスが甘いものが多くどちらかといえば情報伝達文が殆どです。アカデミーで扱う素材は情報伝達文ももちろんありますが、説得、余興、弁明、祈り、懐柔、色々なコミュニケーション目的と多様性があり、いずれも切れば血が出るような素材(主として抜粋)を扱います。その中には論理的発展のさせ方が巧みな評論文もあるでしょう、情感の高め方が絶妙なポーの小説のようなものもあるでしょう。(ディベートが取沙汰されていますが、まずは論理性も非論理性も含めて多様なコミュニケーションの業を含む素材をふんだんに学習者に与えることこそが先決です!)

いわゆる文字に書かれた素材をすべてパロール(語り)と捉えて、それからの中の雄弁のからくり(レトリック)を 「点でなく、線、面、いや球」として役者が長ゼりをまとめて体に刷り込むように染み込ませ、さらにモード転換という魅力的な応用学習で盤石のものにしていきます。
そのためには学習者という発話者の中に、自分が誰で、誰に向かって、いつ、どこから、どういう目的で、何を、どのように展開していき、その時自分の体は何をしているかという「コミュニケーションの七つのポイント」に対する意識があることが大切です。したがって、英語学習のすべての基礎である、コミュニケーション的な精読である批判的味読を行います。これをインタープリティブリーディング、(あるいはオーラルインタープリテーション、作品音声解釈は皆同義である)を通して行いますから、素材の深い理解の方名としての音声身体表現を通すことになり、機械的な暗記とは異なり、効率性、定着度、応用性のあるすぐれた入力となっていきます(ここでリーディングの学習もしていることになるのです!)
取り込みがほどほどのところにきたら、語りの立ち位置を変化させてみるーーすなわち七つのポイントを動かしてしゃべってみるモード転換に移行し入力の固めを行います。
体に刷り込んだ文をキッチリと複製するだけでは不十分です。かりに入力が半分ほどであったらあったで級友とも仮想場面でのやり取りの中で情報ギャップを埋めるべく努力します。火が通っているからすらすらいえる箇所と、予期せぬ相手の返しで、生の言いよどみや過去に仕入れた表現などが出てきたり、あるいは逆に相手に助けられたりして、本当に連続して語っている感覚に自分でおどろくモード転換訓練。多くの受講者が殆ど言語観が変わる体験と述懐しています。

アカデミーのもう一つの特徴は、習熟度別ではないところです。いわゆる複雑系(The Complex System)の有機性の中で構成員は予想外の「細胞変質」を起こし、互いが絡み合って現実と作品の虚構性の中で学習効果をあげています。アカデミーでは富山から九州まで週末来られている先生もいらっしゃいます。職種も一般、大学生中学、高校、高専、大学、各種学校、ラジオ講座の講師兼通訳者等多彩です。 複雑系と関連したことですが、アカデミーでは、シラバス、Can-doリスト 、終了証書などは、概念は入り込む隙間はありません。それらは物事を習得するという、かぐわしきも、奥深い世界とは無縁の、西洋文明に犯された主として理系嗜好(思考とはいえない)による産物であり、それらに組しないという立場をかたくなにも守り続けております。

英語教育は結局のところ現場の教師の実力にかかってきます。 外野が何を言おうともぶれない力をもっていれば問題はないわけです。この講座がひとりでも教員、並びに教員志望の学生諸氏が参加され、話す、書く、読む、聞くが一丸となった英語の指導力を向上させること、同時に私の現在執筆中の本のテーマ、“日本人力を育む英語教育”にいかにつながっていくかを感じとっていくきっかけになれば幸いです。
私は現在は、名古屋市内を中心とした近江アカデミーと京都の某大学の博士課程の二か所でワークショップ形式の授業を行っていますので、元気なうちに多くの先生方と勉強する機会があれば思いながら、不十分ながらもネットでの講座を開設することにいたしました。是非そちらの方にもご参加ください。
個人的なことですが、大学教員としては駆け出しの私がこの実践を引っ提げてあらわれた30年以上の昔、東京外国語大学の元学長,英語教育界のボス的存在であった小川芳雄先生が生前、私のところに歩み寄られ、「英会話をやれということじゃあないんだよね。…これは日本の英語教育を救う道だよ!」と熱くエールを送ってくださったことを昨日の様に思い返されます。

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