ご挨拶 言語パロール観へのパラダイム転換を図る 音読レシテーションスピーチ指導・英語コミュニケーション教育・近江誠

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近江メソッドは異病同治

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まず最初に

 「声に出して学ぶ英語」などというものはありません。「声を出して学ぶ音楽」がないのと同じです。でも「読み」は無音でも成立するのではと思われるかもしれません。でもその誤解が英語教育100年の不作の元凶なのです。

 『声に出してー』は実はかって、教育誌『新英語教育』(三友社)2016年10月号の特集記事のタイトルの巻頭論文執筆の依頼を私が受けた時のタイトルでした。私は『声と体を使う意義: “英会話”は幻にして実体ではないこと』をという題で掲載しました。今回の御あいさつ文は、その時の論文が基になっております。少々長いですが、改革の美名に惑わされた大きな闇の中にいる多くの英語教師、一般学習者に是非読み通していただき、是非一度、葉の無料体験レッスンに見学にいらしてくだされば幸いです。
 我々はピサの斜塔を見て引き付けられます。なぜでしょうか。それは傾きに逆らって復元しようとする感覚が体の中に生まれ、それが緊張感をもたらすからです。教育においても声を出し体を使っていない時はありえません。言葉も同じです。
ということはいわゆるリーディングにおいても、その背後にいる語り手の息遣いを感じ取るように訓練していくことがた大切であるということです。(なぜかはこの後に話します)次に大切なこと、それは以下に英語を話そうとおしゃべりごっこだけをしていても、犬掻きは何時までも犬掻きにとどまってしまうということです。つまりシンクロはおろか、平泳ぎもクロールも無理であるということです。

Oral Interpretationモード転換による

 お金が出てこないといってATMを叩いてこわしてみたら実は故障ではなく、ただ入金を怠っていたという人の話があります。同様、英語が出てこないのはだいたいの場合、入金ならぬ英語の入力を怠っていただけなのです。ではどのように言語の入力を確保させていったらいいのでしょうか。私は4つの経路にわけています。

  • 1)英語で書かれたものを沢山読むうちにいつの間にか英語に感染していくことを狙う『多読法』
  • 2)赤子のようにともかく沢山聞きまくるうちに自然感染していく『多聴法』
  • 3)聞いたら、ともかくもそれを口真似して覚えてしまう『口真似法』

それぞれに有効ですが、最も中心になるべき入力法はー、

  • 4)いわゆる文字媒体の英語(つまり文章)を、背後に語り手がいるパロールとして捉え、語り手に成り代わって原文が意図した聞き手に語ったり、叫んだりしてみる演劇における立稽古的なシミュレート練習をし、かたまりが身体に馴染んできたところで、語り手の立ち位置=レトリカルスタンス)を色々動かしてみる「モード転換練習」をする過程で、原文の完全内質化けをはかるという、近江メソッド(NHK「当世キーワード」紹介)です。

素材はいわゆるダイアローグ(会話)でなくモノローグを主にすべきです。

 理由は論理や感情の展開のさせ方を学び取ることができるからです。しかし、英文素材を語りとしてあらためて検定教科書などを見ると、話者のコミュニケ―ション「目的」の大半が、「情報伝達」である英文が大半です。これはたとえていうなら、食生活において含水炭素しか摂取させないのと同じで、言語観の限界を感じさせます。みなさんは朝起きて年中情報伝達ばかりしているわけではありませんね。説得・余興歓待・弁明・謝罪・祈る、などしているわけです。

そこで、このように異なる目的の素材を詩、物語、随筆、戯曲、笑話、演説、新聞記事、日記、手紙文などから幅広くアカデミーでは選びます。

 すべての文章は語り(パロール)です。その中でも最近の人がかえりみようとしない「文学」はどうでしょう。詩、散文、戯曲などです。文学は言葉の粋(すい)です。詩でも、それはジャンルではなく、語り手の気持ちが高まったときに発する語りなのです。逆にそのように高まる想いを伝えるうってつけのコミュニケーション教材が文学なのです。いいものがあったら、それを喋ってみる自分をシミュレーションしてみてください。ただ、ここに手ほどきがほしいところです。私は、アメリカの大学でドラマとスピーチを専攻してきて役者屋弁護士の卵たちと一緒に学んできて、それ以後長年にわたって日本での英語教育その経訓練をもとにした方法を開発してきましたのでその方法でご指導させっていただきます。少し、具体例をあげましょう。

第一段階としてInterpretive Reading あるいはOral Interpretationという解釈と朗読が一体となった「コミュニケーション的な精読」、「批評的味読」に時間を取ります。

 いわゆるコミュニケーション的な視座というものがあります。1)どういう語り手が(WHO)が、2)どういう聞き手に対して(TO WHOM)、3)どういう目的を達成させるために(WHY)、4)いつ(WHEN)、5)どこから(WHERE) 、6)どういう内容を(WHAT)、7)どういう表現や組み立てなどに託して表現しているか(HOW)(さらにはエクストラとして(8)そしてその目的はどの程度達成されているか)。それを、だからどういう声の調子と身体の形が想像されるかに自分の解釈の表明として声に出していただきます。
これらの7つのポイントは文章に内在しているもので、リーディングとは(少なくともコミュニケーション学では)それを引っぱり出す過程であるといっていいでしょう。早く読ませばいいものではない。時代の業にのまれてはいけません。早読ではない。遅読こそが英語学習のバイエルで、ここではではじっくりと味わっていただきます。

 If I knew it would be the last time that I’d see you fall asleep, I would tuck you in more tightly,and pray the Lord your soul to keep…

 10人中10人が何の気なしに下向いて”If I knew..”とぶつぶついってしまうでしょう。そこで、間髪を入れずに「待った!」をかけるかもしれません。戯れに声は出すまじです。「誰に語りかけている?」と問いかけます。仮定法過去だから現在の事実に反する仮定ですね。ということはまだ希望があり、「相手は目の前にいるよね?」。「だったらしっかりと我々を見ていうところだよね」と持って行く。文法は大切ですが、あくまでもコミュニケーション的視座に立って扱うのが基本です。

では原文が次のようになっていたらどうしますか。

 If I had known it would be the last time that I’d see you fall asleep, I would’ve tucked you in more tightly, and prayed the Lord your soul to keep. If I had known it would be the last time that I’d see you walk out the door, I would’ve given you a hug and a kiss, and called you back for just one more…(A) So just in case tomorrow never comes, and today is all I get, I’d like to say how much I love you, and I hope we never will forget tomorrow is not promised to anyone, young or old alike,and today may be the last chance you get to hold your loved one tight. (B) (based on “Tomorrow Never Comes”)

 仮定法過去完了で過去の事実の反対の仮定です。ということは文中のyouは目の前にはいません。だから、真っ直ぐに見てしまったら、「ちょっと待って、僕たちはまだ生きているんだが…」といって考えさせます。

 語り相手は誰れか?仮定法過去の方は、PARTSA、Bを通して同じ相手で成立するが、過去完了の方はまず故人に語りかけていることを確認し合います。途端に声は変化し身体も顔も彼方を見つめ、涙と後悔にくれれば理想的です。
 「でも先生、故人への語り掛けをわきから見ている目の前にいる人々がいますよね?」 「So just in case..以下の『忠告』は今生きていて目の前にいる人(たち)に『生きているうちにあなたの愛する人にしっかりと愛を注いでやってください』という説得が語り全体の目的となり、次はその目的を達成させるために、前半の″愁嘆場“に私のように後悔しないようにという提言のサポートという機能を与えていると解釈できるね」
「ということはAの部分ではが向けられている故人と、故人とのやりとりを覗かせている聴衆という二種類が介在しているということですね」
「うん。そうやってみよう」

 観念的な理解と音声身体表現との絶え間ない往復過程の中で解釈が確認、修正され弁証法的に理解が深化していく。そしてさらに音読を重ねていくことで確実に英語は塊で取り込まれていくと近江メソッドでは考えます。
(上のような学習過程を完全スキップして、ただがむしゃらにネイティブのテープを聞くだけの入力では、片っ端らから忘れてしまいうので自分の英語発話能力につながっていきません)。

 ちなみに当節、英語での授業といいますが、上のようなやり取りをフルに英語で展開することは色々困難でしょう。」だいたいそんなことでもできる表現力を獲得できるための訓練の話をしているのであって、その過程まで無理して英語を使うことはありません。何でもかんでも英語でやってくれという主催者の要請に従って英語で講演をしたら、話がおわってから、どうしたら先生のようにはなせるのですかという質問を受けるくらいです。だからその話をしてきたわけですが、多くの英語教師が全くついていけなかったというお粗末な話しです。もう挙げたいことは、人間には発達段階に合わせた適切な投与の時期というものがあるのです。何でも英語ではなせばいいだろうというのは全くの素人考えなのです。

語りの立ち位置を変化させる訓練>>>