さて、最近渡されたスクリプトは、A Streetcar Named Desire (Tennessee Williams 著) から 抜粋された、主人公Branch とStanleyのやり取り。なんと懐かしい!私がまだ20歳そこそこの頃(なんと半世紀近く前である)、読んだ作品である。すっかり忘れ去っていたストーリーが徐々に記憶に戻ってきた。まだ若かった私が、なぜこのプライドばかり高いが傷つきやすい退廃的な女の物語にひかれたのか分からない。
“Physical beauty is passing. A transitory possession. But beauty of the mind and richness of the spirit and tenderness of the heart ? and I have all of those things ? aren’t taken away,…”
「犬も歩けば棒にあたる」…お気楽瘋癲犬のような私はさまよい出て、棒にあたるように「近江アカデミー」に出会った。
ある友人から「英語朗読劇」という言葉を小耳にはさむや、すぐに、何の前知識もなく教室開かれている場所と時間を聞いただけですっ飛んで行った。
もう講座は始まっていた。何の前触れもなく突然押しかけてきた変な闖入者に、先生初め受講生の皆さんはびっくりされていたようですが、とにかく見学を許された。
少人数ながら、教室には適度な緊張感が漂っていた。先生がかなりの頻度で声を荒げる。「違う!そうじゃないだろう!」怒鳴られながらも受講生が食らいつくように何度も何度も同じセリフを声に出す…なんだこりゃ…私は初めて体ごと英語にぶつかっている人たちに出会った。
何を隠そう、私の英語学習歴はかなり長い。
娘たちが大学生になった時に、私も英語くらいはものにしてみようと一念発起して英語を勉強し始めた。語学学校にもいくつか通い、英語のサークルにも入った。英語の仲間もたくさんできた。アルクの通信教育を受けたこともある。本屋ではよく「私はこうして英語をモノにした」というハウツー本を立ち読みした。語彙量を増やせ、シャワーのように英語を聞け,シャドーイング等々、様々なノウハウは頭に入ったが「英語をモノにする」には程遠いまま月日は流れた。「3か月で…」とか「聞くだけで…」を信じるほどうぶじゃない…努力しなくてはつかめないものであることはわかってきた。しかし、英語の努力はむなしい。すぐに成果が目に見えないのに、黙々と努力できる人はよほどモチベイションが高い人だけである。何となく英語から遠のいてきていた。
しかし、私は「近江アカデミー」に入会してしまった。
クラスで声に出されていた英語が、生き生きした、人間が発する言葉に聞こえたからである。これは面白そうだと直感的に思った。ニュース解説でもなく観光旅行英語でもない。泣いたり笑ったり、有頂天になったり絶望したり、つまり共感できる血の通った人間の言葉であることが、私の目には新鮮に映ったからである。
先生がクラスで使うスクリプトは多岐にわたっている。シェクスピアやギリシャ悲劇からの抜粋、東日本大震災関連の文、はたまた酒場の女の愚痴だったり、ちょっとしたパロディーめいた小粋な新聞記事だったり、受講生たちは目と口をうろちょろさせて、先生の指導についていくのに必死だ。
さて、入会してもう7か月は過ぎた。先生は、与えられたスクリプトを暗記する必要はないと言う。
しかし読むな、顔を上げて言葉を発せよと言う。
そんな…どうしたらそんな離れ業ができるの?
「ちらと見て目線は上だ」、先生はのたもう。そんなこと言われても、こちとら、ど近眼の上に、3歩歩いたら全てをを忘れる鳥頭、至難の業である。「感情がまるで入っていない!」「はい、もういちどやってみます!」「あのなー、抑揚をはでにつけやあ感情が表現されるってもんじゃあないんだよ。抑揚を抑えて、平たんに言うことでかえって人に訴えることもあるんだ!」そして先生が言って見せる。本当にその通り、納得です。
では、何故暗記もしない、読みもしないで朗読できるのか?
やはり、ここでも『王道』はなかったのです。気持ちを込めて何度も声に出して練習しているうちに、その言葉が体内にインプットされ、蓄積され。たくさんのインプットがあれば、必ず必要な時に必要な表現が自然に出てくる(それもかっこよく)。
とは言え、根が怠け者の私は、やはり家でのコツコツ練習ができない。教室では相変わらずの失語症状態が続いていて、無様この上ない。救いは、見捨てられてもいいような不出来な生徒にも本気でげきを飛ばすおしみのない先生の叱咤激励だ。(先生、すみません)
新入り受講生としての「はてな?}の時期も過ぎ、先生の目指すOral Interpretation=文学作品音声解釈表現法)、文学作品を始めとして、いわゆる書かれた文章を、一片の語りとしてとらえ、その作品の知的、情緒的、審美的なすべてを、語り手に成り代わって聞き手に伝達する音読、これが豊かな表現力の入力の段階である。この蓄積された表現力が「言葉の筋力」となって、situationが変わっても自然にその表現が使えるように出てくるというこのプロセスが近江アカデミーで訓練されるわけです。これをモード転換訓練と言う。
少し理論はわかってきたが、実践が難しいのは今までの英語学習法と同じです(怠けタイプの人間には)。しかし、根本的にほかの学習法と違うところがあり、私にはそれがことのほか面白いのです。事務的でもなく単なる情報通達でもなく、人生の喜怒哀楽が言葉の中に生きてる、それが面白いのです。先生は、「Oral Interpretationは芝居じゃない」とおっしゃる。「役者は登場人物になりきって観客に訴えればいいが、Oral Interpretationでは、語り手はいつも、なにを、いつ、だれに向かって伝えたいのか、自分の立ち位置をいつも自覚していることが大事である」と話される。なかなか奥が深い、はるけき道ではありますが。
さて、最近渡されたスクリプトは、A Streetcar Named Desire (Tennessee Williams 著) から 抜粋された、主人公Branch とStanleyのやり取り。なんと懐かしい!私がまだ20歳そこそこの頃(なんと半世紀近く前である)、読んだ作品である。すっかり忘れ去っていたストーリーが徐々に記憶に戻ってきた。まだ若かった私が、なぜこのプライドばかり高いが傷つきやすい退廃的な女の物語にひかれたのか分からない。
“Physical beauty is passing. A transitory possession. But beauty of the mind and richness of the spirit and tenderness of the heart ? and I have all of those things ? aren’t taken away,…”
傷つきやすいBranchと違って、したたかな老女と化した私ではあるが、彼女の人生を思いやるだけの年月を経てきている。人との出会いも面白いが、近江アカデミーでは様々な作品のエッセンスと出会える。若き日に胸をときめかしたフレーズとの再会もある。面白きかな人生である。私は近江先生が差し出してくれる作品に触れ、それに息を吹き込ませてくれるこの学習方法が気に入っている。行雲流水、いまだに勉強習慣が身につかない私であるが、楽しんでやっています。たまたま出会った“棒”を“杖”に変えて残りの英語道を歩んでいきたいと思っています。
冷暖自知、皆様もご体験あれ。