受講者の声 音読レシテーションスピーチ指導・英語コミュニケーション教育・近江誠

  • TOP
  • ご挨拶
  • 活動内容
  • よくある質問
  • 受講者の声

受講者の声
Opinions

外山恩さんと宮崎菜摘さん

  • 近江メソッドを語る
  • 英語塾CLeP Initiative代表
    高校英語科講師
    外山 恩様
外山恩さん
  • オフィスワーカー
    宮崎 菜摘様
と宮崎菜摘さん

新春のある日の午後、近江アカデミー葉山教室会員の外山恩さんと名古屋教室の宮崎菜摘さんが話し合いました。きっかけは受講者体験記を書いていた外山さんが、You Tubeに上がっている宮崎さんの「雪女」の演技を思い出し彼女を対談相手に指名したことで実現したものです。

外山氏は東京都内で中高生に英語を教えながら同時に高校卒業生から社会人までの指導もされているベテラン英語教員、宮崎菜摘さんは大学を卒業したオフィスワーカー、近江アカデミーには2011年の発足時から在籍している古参メンバーです。対談がはじまってほどなく、外山氏を宮崎さんが追及しようとする展開になっていってしまいますが、これも“”魔性の女”(?)のいたすところー、いえ実は〈現実と虚構の狭間に生を受けさせるが故に真実を伝える夢対談〉の形式を敢えてとったゆえのこと
ひらにおゆるしのほどをー。では…
…The which if with your patient ears attend what here shall miss our toil shall strive to mend(from Romeo and Juliet)

平成31年2月

宮崎:まず外山先生の経歴をお聞かせください。

外山:私が最初に教壇にたったのは1979年ですので、かれこれ40年近く英語を教えてきたことになります。主として中学校と高校が対象でした。教えた生徒の数は3000人を超えます。今でも約三分の一の生徒、卒業生とFBなどを通じて接点があります。中にはいまアメリカの大学で教鞭をとっている人もいるほどです。生徒には恵まれましたね。

40年間の最後の10年(現在進行形です・笑)は、主として英語を「表現する」ことで身につける方法を模索してきました。英語スピーチやプレゼンテーションなども積極的に授業に取り入れる方法を、かなり早くから導入していたと思います。

現在も高等学校で非常勤講師として教えることに変わりはありませんが、自分の小さな塾を開いています。CLeP Initiativeという名前で、何人かの先生と一緒に英語、数学、理科、社会、それに一番大事な国語を教えています。私は高校卒業から社会人までが担当で「ABCからPresentationまで」を一応の謳い文句にしています。
https://toyama.mirai-edu.jp/?fbclid=IwAR1xX5rD3ff-81kosnn0ONM79v2LAzn3rD1w3uj-2Jbv5ZQ91Hp1ECUuWh8

宮崎:先生と「近江メソッド」との接点はいつ頃だったのでしょう?

外山:これが案外最近なのですね。近江先生に連絡を差し上げて「やるんなら葉山においで」と言われて、初めてお伺いしたのが昨年の4月です。ですから現時点(平成31年1月)で正味10か月弱というところでしょうか。

40年も英語を教えていると、正直言ってちょっと英語に「飽きてくる」のですね。生徒には申し訳ないのですが(笑)。最初の専攻は「英語・英文学」でしたが、それから別の大学で「臨床心理学」「哲学」「精神医学」「歴史学」「キリスト教神学」など、かなりの分野の勉強をしました。「英語を勉強する」というより「英語で勉強する」という感じでした。「英語は情報獲得のための一手段にすぎない」というのが、まぁそれまで私の頭にあった「英語観」でしたね。

最初の「近江メソッド」との接点は「英語の朗読」についていろいろと調べている時でした。当時の私はご多分に漏れず「『朗読』などは、ちょっと英語を感情込めて読んで、発音やイントネーションでミスをしなければ誰にでもできることだ」くらいに考えている、どこにでもいる英語教員の一人でした。近江先生と出会って、お話を直接聞き、その練習を少ししていただいた時、それまで私が考えていたことが「全くの間違い」であったことに気づかされたわけです。これは「コペルニクス的転換」(笑)でした。

宮崎:外山先生の考えていたことが、「近江メソッド」との出会いで「壊された」…ということに?

外山:はい、まさしく「その通り!」(笑)です。「英語は情報獲得のための一手段」と考えて間違いではありません。でもそう考えると、その手段で「情報が取れた」その瞬間にその英語とは「お別れ」(笑)です。どんな英語の文章でもそこには書いた人の「思い」があり「感情」が生きていて、それらに乗せられてこちらに伝わってくるのが「情報」ですよね。それを「情報」だけとってそれで終わりにしたら、そこには筆者と読者(である私たち)との本当の意味でのinteractionが存在する余地がないということになります。

変な譬えですが、大豆の汁ににがりを加えて「豆腐」ができますよね。お豆腐は美味しい食材です。でも豆腐が大豆の旨味成分のすべてを含んでいるわけではないんですよ。そこで捨てられてしまうものを「オカラ」として、私たちは上手に使うわけです。私の英語もそれと同じです。情報獲得の過程で、私たちが捨ててしまった大事なものが元の英文には残っているかもしれなくて、実はそっちのほうが大事であった、ということに「近江メソッド」で気づかされた、というわけなんです。

宮崎:新しい「気付き」だったわけですね。

外山:「気付き」なんてもんじゃなかったですね(笑)。「自分は一体、(初めて英語を勉強し始めてから今まで)55年間何をやってきたんだろう」って思いました。

宮崎:それはすごいですね。具体的にどういう点が…。

外山:「自分は自分なりに英語を熱心に勉強してきたと思ってきたけれど、それは大間違いだった。英語のほんの上っ面を撫でてきただけだった。これじゃイカン」って、真剣に悩みましたよ。

私だって英語の素人じゃないつもりでしたが、近江先生の英語理解の奥深さには、たまげました(笑)。「世の中にはこういう人がいるんだ…」という思いでしたね。そしてそれが単なる知識レベルではなくて、ご自分の本当の力となってこちらにぶつけられるのですから、参ります。一回の授業で心底くたびれます。葉山での授業は一回2時間くらいなんです。終わって下のバス停からバスに乗ると、大体逗子の駅まで気を失ってますね(笑)。

宮崎:それはそのくらい疲れる、ということなんですね。

外山:はい、近江先生のエネルギーにこちらが叩きのめされるような感じ、と言えば分かっていただけるでしょうか。先生との授業を通して、英語という語学に対する私の考えが180度変わりました。今まではある程度「惰性」でやってきた英語の勉強でしたが、これは本気でやらないといかんぞ!と(笑)。

宮崎:名古屋教室と基本的には素材に対する取り組み方は同じだと思います。こおあたりで具体的にはどんな練習をしているかまとめてみてくださいませんか。

外山:はい。ある英文(先生に選定していただいたものや、こちらがお願いして使っていただくものなど)を、まず徹底的にきちんと「読む」みます。その時に大切なことは、通り一遍の文法・構文分析に単語の意味を載せたような読み方をしないこと。その英文を書いた筆者が、「いつ、どこで、誰にたいして、なぜ、どのような言い方で」その文章を書いたのかを、読む側(私たち)が創造力の限りを使って肉薄してゆきます。

宮崎:いわゆる「コミュニケーション7つのポイント」に照らし合わせての精読ですね。

外山:もちろんこの場合その英文の解釈に差が出てくることは間違いないので、先生と意見の交換をしながら深めていきます。筆者,あるいは筆者が託した語り手ーの立場に立ち、その時・その瞬間に筆者がどんな思いでその文章を書いたかを考えながら読みを深めていく、そしてさらに徹底的に読み込んでゆくうちに、その英文が自分の中に「内面化internalize」されていく。これはただの「暗記memorize」や「シャドウィング」とは比べ物にならないほど深い体験です。

宮崎:解釈と表現が一体となった世界ですね。

外山:ここまででも結構大変なのですが、近江メソッドはそのあとに「モード転換」という練習がありますね。これによりオーラルインタ-テーションで自分の物になったはずの素材が、ダメ押し的にinternalizeされるというわけですね。7つのポイントをいろいろ変化させてみるシミュレーションですね。これがまた大変なのですね。

宮崎:即興的にしてみたり、あらかじめ準備しておいてもいいわけですが、自分の学力に応じてすればいいことになっています。

外山:最初は私もこの「モード転換」がよくわからずに、よく叱られました(笑)。「そもそもモードとは何ぞや」でしたね(笑)。

宮崎:それは試されたのですよ。モード転換は近江メソッドの後半の要の訓練ですからね。近江先生は、色々な本でそれを説しています。だからそれを前もって読んでいるという前提で一瞬の隙をつかれたのではないでしょうか。プロにはちょっと厳しいのかもしれませんね。でも受講者を見て硬軟を調節されます。

外山:やられました(笑)私は先生が書かれた本はすべて持っているはずですが…まあ、読むだけではだめなのはわかりますがー(笑い)
あるとき「あ、これは俳優のセリフ訓練に似ているかもしれない」と思ったことがありました。

宮崎:役者は理解を素材の理解を深めるためとか役作りのために、空間を動かしてみたり語り手や相手の性格を変えてみたり実験的にいろいろなことをします。これは解釈深めを狙ったモード転換が表に出る場合です。他に発音、抑揚。リズムなどを改良するためのいわばスピーチインプルーブメントのためのモード転換にフォーカスすることも可能です。

外山:しかしなんといっても最も重要なモード転換は素材のレトリックの完全内在化を狙ったものですね。

宮崎:ええ、NHKのラジオ講座の柴原智幸先生などは、まさに来られる前からこのモード転換に深くはまっておられて、これこそが近江メソッドの「目」だと熱弁されていましたよ。

外山:そのようにして自分の中の英語を増やしてゆくことを自己訓練として行っていることが大切なのですね。シャドウィングではない。自分がそれを言っているときに体はなにをしているのか、それを朗読しているときに心の中で何を思っているかを感じ取りながら声に出す朗読(Oral Interpretation)であり、それにつづくモード転換にしてこそ自分の中に蓄えられた英語がいわゆる"comprehensible input"に変質していき、ある時ふっと口をついて出てくるようになる-。これは本当ですね。日本語より英語のほうが先にでてくる、当然と言えば当然ですがその通りです。それをつなげてゆけばいくらでも長く話すことができます。場合によっては出てくる英語の流れに自分の身を任せているような感じになります。それが大事なのだと近江先生からは徹底的に教えられました。

教員への福音:不自然な英文が不自然とわかりそれに代わる本物が浮かんでくる力

外山:もう一つ英語教員として大変ありがたいことがあります。それは対象にしている英文を、自信をもって自分の言葉に変換できるということです。

宮崎:なるほど! 学校の先生ならではの気づきですね!でもこれをありがたいと思う感覚が多くの教員にどれだけあるかどうかは別なのでしょうけれどもね(笑)ですがとてもすごいことですね。もうちょっと詳しく聞かせてください。

外山:対象にしている英文を、近江メソッドで徹底的にinternalizeする訓練をしていると、別の英文を読んでいる途中で「あ、これはこう言いなおしたほうが(自分には)よい」と、直感的に理解できるようになるのです。それは「筆者の英文が間違っている」ということとは全く違います。同じことを、筆者はこう言ったが、自分だったらこういうだろう、ということなんですよ。それが実に自然にできるようになります。生徒に英文を教えているときも「筆者はこう書いているけれど、前後の関係から考えたら自分ならこう言うだろうね」とはっきり自信をもって言えるようになります。この違いは大きいですよ。

宮崎:「違い」とおっしゃいましたが、具体的にはどのような…?

外山:「外側」から見ていた英語が、今度は「内側」からみられるようになるということでしょうね。この違いは、やってみないとわかりません。以前こんなことがありました。

ある大学の入試問題を扱っていたときのことです。読んでいるときにどうしても「ここは不自然だなぁ」と思うところが出てきて、前後を何度も読んだのですが、やっぱり不自然さが消えなくて。別に文法がどうのとか単語がどうのという点ではないのですよね。英語としての「座りの悪さ」とでもいうのでしょうか。

たまたまその英文をネットでチェックしてみたら、同じ文章にヒットしましてね。そのサイトが入試問題の出典だったのは間違いないのですが、そのオリジナルと比較してみたら、なんと!私が「不自然だ」と感じた部分が入試問題作成者の書き換えた部分だったことが分かったのです。

入試問題ではよくあることで、それ自体が悪いことではありません。受けるのは高校生ですからあまり複雑でわかりにくい部分は、出題者の責任でわかりやすくリライトすることは、本当に多いのです。ですが日本人が書き換えた部分の不自然さが、何のヒントもなく自然に、かつ直感的に感じることができたというのは、英語を外国語として教えているものにとっては本当にうれしかったです。そのあとnative speakerにもチェックしてもらったのです。彼らがいうのは、やはり問題のほうが不自然で、私が書き直したほうがより自然であるということでした。

こういうことが直感的に理解できるようになることが、近江メソッドのすごいところだと確信しています。

宮崎:結局、オーラルインタープリテーションとモード転換を通して吸収、内在化されてきたから内から本物を触れていれば、不自然なものはすぐにわかるということなのではないでしょうか。近江先生がいわれていることですねー。

プレゼンは目的、それとも訓練?
"パラリンピックスを目指すスポーツ教育”?

宮崎:ところで外山先生は「英語プレゼンテーション」の指導もお仕事の中には入っているようですが…。

外山:はい、それが本職…というとおかしいのですが、そうです。主として大人の方々のプレゼン指導をさせてもらっています。大人と言っても、大学生や社会人一年生がほとんどです。学校の先生方にプレゼンとスピーチの違いなども含めてレクチャーすることも多いですね。

宮崎:ということは先生にとってプレゼンは訓練系列というより目的系列なのですね。

外山:と申しますと...。

宮崎:「いいプレゼンの為に」ご指導されているわけですよね。

外山:訓練としてのプレゼンを除外しているわけではありませんが、攻略すべき目的としてプレゼンがあることは確かです。

宮崎:そうですね。プレゼンそのものの社会的に―ズは大きいですものね。ですけれども目的としてのプレゼンにしろ、訓練としてのそれにしろ、この指導を進めていくということは楽ではなさそうですね。

外山:どういった意味で宮崎さんは楽ではないと思われるのですか。

宮崎:まず宿命的で重たい問題、プレゼン自体が今は「病身」ではないかということです。パワーポイントの陰に隠れて、発表者の身体は硬直し、声はぼそぼそ目線は話し相手を極力避けようとしています。身体がそうなら今度は心です。心は基本的には「情報を伝達する」に固定されてしまっている。愛するプレゼン、誘惑するプレゼン、弁明するプレゼン、楽しませるプレゼンーそれは封印されたかのように情報伝達に固定化されている。

外山:病んでいる、あるいは不具合を生じているとしたらプレゼンそのものではなく人間であって、そこを直していくのが我々指導者ではないかと思いますがー。

宮崎:もちろん「医者」は全力をつくして直そうとします。ですが、なんというかある形式が何回も繰り返されてきているうちに「病態」がノルム化する。するとウイリアムジェームズではないですが、型に沿うように人の心まで動き始める。つまりプレゼンはあのように振舞うことが正しいのだと人々の心に植え付けられてしまう。大変だというのは、同情して申したつもりです…フフ(雪女笑い)。

宮崎

外山:特に長いものには巻かれよの日本社会にはそういうふうに流れてしまうところがありますね。

宮崎:はい。外山先生は多かれ少なかれこれに抗っていかれていると思うのですよ。走り感覚を覚えさす練習として、ブレーキをかけながらアクセルを踏ませるようなことだけはやめさせたいのですよね。

外山:それはそうです。で、2つめの困難さとは何でしょう。

宮崎:これはあらゆる芸事、習い事についていえることですが、もしプレゼンに目的設定したとします。その場合、プレゼンをすることがいいプレゼンにつながるのかという問い掛けです。

外山:教育全体が対症療法的になってしまっていて根本的な能力は獲得されにくいし、治療も成立しくいということですね…。

宮崎:英会話ができないのは英会話をばかりやっているからである式の近江先生がよくあげる例ですね…。

外山:T大の野球部が弱かったのは野球ばかりやっていたからであるとか

宮崎:横綱Kが伸び悩んだのは、稽古だけからしか学ぼうとしなかったからであるというはなしもある(白鵬談)

外山:二流の画家が二流止まりなのは、画家だから彫刻には興味を示さないからとか…。

宮崎:そういうことです。逆説的ですが、プレゼンのためにもプレゼンだけに制限するなということになるかと思います。

教育訓練としてのプレゼンをどう考えるか?

宮崎:さて、ここからなのですが、さしあたってプレゼンをしなければならないから、どうしたらいいか教えてくれというビジネスマンや学者への対応はそれとして、先生も私も、近江先生も教育現場―主として高校レベルなどに教科活動として導入されているということに関心がいかざるをえませんね。

外山:当然です。

宮崎:教育とはあること(例えばプレゼン)ができるようになるためにそれをするというだけでない。むしろ、そのことをすることで、他の力を獲得させていくのを助けるという側面がありますよね。なんだか釈迦に説法みたいになってしまってごめんなさ。けれど、このことはかなり理解されにくいとみえて作家の曽野綾子さんのように「こんな高等数学を日常で役立つことなどない」といって教科からはずせなどと的外れな発言をするようなことになってしまうわけです(笑)。一見自分とは関係なさそうなことでもそれを通ることによっていろいろな側面で有益な知性や感性、数学だったら数的思考などを身に着けることができるという面を曽野さんは全く見落としていたわけです。

外山:教育訓練系列として機能するところがあるとすればそれは何かということを考える余裕が教育界全体にほしいですね。

宮崎:沢山考えられると思います。資料集め、目的に即した話の組み立て、声の出し方―、ただ、それらはプレゼンのような学習をするがゆえに最も効果的に学ばれるのか、スピーチやドラマではだめなのか等、さらにはどういう指導者が、どういう発達段階の学習者に教えるかなどの問いかけとセットになっているでしょうね。

外山:ディベートなどでいうlaw of inherency(内因性の法則)ですね。おもしろいけどむつかしいですね。

宮崎:しかし、このことは逆に言えば、その活動の無効性とかマイナス面とも裏腹ではないと思います。プレゼンテーションですが〈誕生からオリンピック〉ならいいとしても、〈誕生からパラリンピックス〉の献立を考える人はいません。極端な例をあげるとしたら、スポーツ教育の第一に車いすの練習をもってきたり、バーベルを持ってきていいのかという疑問は残ってしまうのです。人間の機能の点からみれば半欠けのコミュニケーションを奨励することにもつながりかねない。バイエルとしての英語を与え切れない教育環境では免疫力もついていませんから心配です。

外山:すでに家庭内コミュニケーション不全は日常のこととなっていますしね。

宮崎:外では地下鉄の中などで全員が、近江先生の表現を使えば“飼いばおけにずらりと並んで下を向いて黙々と餌を食べている馬”同然にスマホをいじっている。それに何よりも、現状では学者やビジネスマンたちがプレゼンが終わってからが本当のコミュニケーションなのに、白熱した議論などにはついていけずに、寡黙になってしまうのが通例です。つまりプレゼン訓練は学習者の英語コミュニケーションにもっていけていない。

外山:それどころかほとんどの英語教員もプレゼンにはプレゼン以上の物は期待していないし、そもそもホンネはお荷物と思っている…。

宮崎:仮にこの活動に教育活動としての意味を感じとっていても、近江メソッドなど知らないから、「プレゼンしました」で終わってしまってすべて世はこともなし…。

「築地に残れ」近江メソッドの表番組と裏番組

外山:どういう方向に軌道修正していったらいいのでしょうかね。

宮崎:「築地に残れ」でしょうかね。

外山:エッ?ア、比喩ですね(笑)。

宮崎:古代ギリシャより連綿と続く(プレゼンを含む)巨大なAll-inclusiveな Speech& Dramaの学際訓練領域に身を置けということですねー。ちなみにこの比喩は近江先生の政治的見解をあらわすものではまったくありません(笑)。

外山:それはそうでしょう(笑)。

宮崎:外山先生はさきに「プレゼンとスピーチの違い」、「ただのスピーチ練習と違って」といい方で、子供のプレゼンが不肖の親であるスピーチを超えようとするという感じでした。さらりと西洋のレトリックの2000年余の歴史を簡単に括ってしまわれましたが…。

外山:…。

宮崎:この場合の先生の言われる「ただのスピーチ」とは、日本の英語教育界が勝手に理解してきて生徒にあてがってきた例の暗記コンテストか、例の〈ただ書いて英語を直してもらって暗記してジェスチャーをつけて終わりというあの活動〉の慣習的な世界ですよね...。

外山:そういうことになるとは思います。

宮崎:本来の「スピーチ」は勿論不肖の子などではありません。その一大特徴は【言葉の意味は言葉の中に決定済みのものとして内在している部分より、その使用者によって与えられるものである】という言語パロール観を軸として発達してきたものですが、そして日本の英語教育は結局は理解が届かなかっただけの話です。そこに目あたらしいプレゼンテーションなるものが飛び込んできた。すると日本人の常で心がそちらに動いてしまった。だったら私たちはそのところで流されてないように伝えるべきものを伝えていかねばならないと思います。

狭義のスピーチはパブリックスピーキングというような訓練を指すことがありますが、広義のスピーチは、古代ギリシャ・ローマの時代より西洋文化の中に脈々と生きてきたドラマ、オーラルインタープリテーション、ディベート等の伝統的な一大学学際的な領域といわれている考え方と方法が混然たる一体となり、近江先生が開発してきた道具立ても含め、互いに網の目のように張り巡らされています。これは近江先生のたとえば1996年時点で出ている『英語コミュニケーションの理論と実際-スピーチコミュニケーションからの提言』などをみてもかなりわかります。
だから「プレゼン」という看板を出して、いわば西欧スピーチ・ドラマのAll inclusive な機能をプレゼンといういわば〝新居”に持ってこようとすることは築地の全機能を豊洲に移行してしまうより数倍むつかしい。

外山:その中でオーラルインタープリテーションを中心とした訓練が「近江メソッド」の表番組ですね。近江メソッドは、直接プレゼンのテクニックに特化した練習などはやりませんが、英語の裾野を広げておくことが最終的には立派なプレゼンに結び付くことになると言ってきているのです。プレゼンを練習したいという人に私は「テクニックに走るな。本質をつかめ」といつも言います。プレゼンの内容はとも角として、こと英語表現に限定した場合、「本質」を鍛えられるのは、「近江メソッド」以外に考えられません。そのためには自分が本当に思いを込めて使える英語を、自分の中に蓄えておかねばならないのです…。

宮崎:プレゼンに特化しないどころか、とうに抱き込んでいるわけですよ。これこそがプレゼン、いやコミュニケーションなのではないです。また英語表現といっても、単なる表現のかたまりというより、たとえば「ヴァージニアへの手紙」の中で、大小、遠近の概念をさせながらサンタクロースの存在を分からせようとするいわば、素材の「説得戦略、全体を通しての説得レトリック、雄弁のからくり」をも指すと捉えておくのが正しいと思います。

外山:そうですね。しかしこう考えていくと、実際、日常会話の「上手い下手」が、そのままプレゼンの出来を左右するなどというチャチナものではまったくありえませんね。限られた表現を駆使することで、逆にプレゼンで大きな成果を上げることもあります。でも自分が使える英語そのものの幅が広いほど、その「場」を創り出すのが楽になることは間違いなす。 説得が達成されたというわけです。

宮崎:それまた重要な指摘ですね。「場」を創りだせる能力は、即興(Extemporaneous)の能力でコミュニケー力の最終的にたどりつく発信能力とすらいっていいですものね。俳優の近藤正臣さんが環境問題について「プレゼン」したときに近江先生が司会だったことがあったそうです。近藤さんの紹介をしているときに壇上の外から立ち回りをはじめていたことがあったそうですよ。

外山:うーん。演台に立っておもむろに話がはじまるというものではないのですね。

宮崎:そうです。ところがここに落とし穴があるのですね。みんなそういう域に到達したいと焦り、自由勝手気ままにアドリブを入れたがる、させたがる、遊びたがる…。

外山:だが外国語の場合はそうはいきません。

宮崎:10年早いぜベイビーですね(笑)ところがここでも近江メソッドは即興性をも養っていると考えられるのではないでしょうか。

外山:どうしてそうなるかちょっと説明してください。

宮崎:近江メソッド(表番組)は、ご存知のように基本的には他人の筆による作品であり、その中に潜んでいる場と空間を抉り出してそれを表出する過程で表現を入力することでしたよね。そして例のモード転換はその入力のダメ押し的に行うことを意図しているわけですが、場面を色々動かして話してみるから、新しい「場」で即興練習もしていてというわけです。

外山:なるほど、これがのちに本当の即興のもとになる技を練習、吸収することにつながっていると考えられるわけですね。

宮崎:でもですね。近江メソッドだけでもと部分引っ越しをしていわば、「外付け機能」的に使おうとしても、どこかギクシャクが残るような気がします。場」を創る即興能力の訓練ひとつとってもいろいろな道具立てが、本家には他にも目白押しでそちらにも連結さしているのにそういう栄養補給のルートを断ち切ることになるからです。

まずは狭義のパブリック・スピーキングの のExtemporaneous speaking,創造劇(Creative Dramatics)など様々な分野の中に内蔵されています。近江メソッドの裏番組的な『仮想レトリカル。スピーチ訓練』(Hypothetican, Intercultural and Extemporaneous)をみるとその学際的なアプローチにびっくりします。ではそれについて紹介していきましょう。

『仮想レトリカル・スピーチ訓練』
(Hypothetical,Rhetorical,Interculturaland Extemporaneous)

自由に場面を想定します。だからHypothetical です。現実に縛られる話題が限られ十分な練習ができない欠点をカバーしています。たとえば名古屋の住民Aが語り手。聞き手は東京の在住のBと建設会社代表。東京宅の前に三階建ての家が計画されているが高さを調節させようと交渉する。これは「情報伝達」(toinform )ではありません。「説得(to persuade)」です。

説得計画を考えるところからこのスピーチ学習が始まっています。会場を借りてお決まりののプレゼンをさせるという固定観念に囚われません。場所選びから始まっている。中間地点として浜名湖あたりにしてみようとかー。交渉で相手を有利に立たせたくないから。なるべく説得者の自分を大きく見せたいなどと考えたらとそれはエトス的説得につながっています。

そしてやっと話をどう運んでいくかに入っていくー。非言語はどうするかー。(そもそもこれを入れるか入れないかは意図による。この点を勘違いしている発表が後を絶ちません。近年、何かというと論理が取りざたされますが、説得はロゴス的説得ばかりではない。心に訴えるパトスの領域が果てしなく大きい。下手に論理に訴えると失敗さえする。

宮崎:日本人を動かすには特にそんな感じがしますね。

外山:相手が誰かなんですね。文化的視点が入るからInterculturalです。

宮崎:そうですね。パトスの生物的欲求、保全欲求、帰属欲求、名誉欲などの充足を約束する方向に話を展開させる。だから相手の分析(聴衆分析)が必要になる。「コヤツは食い意地がはっているようだからまずは浜名湖のウナギを食わせておくか」などのつぶやきに従ったら、パトスの生物的欲求の充足の手です。キレイどころを呼んで歓待することもあるでしょう(笑)。そしてそれをどういう言語的展開の中で考える。どういう種類のパラグラフをどのようにつなげるか。時系列段落、空間的配列、原因結果配列か云々を考えます。Rhetoricalですね。

宮崎:いよいよことばを紡いでいく、というかやっと文章をしたためるということになるわけですが、特に英語ということになると思うようにならない。こういうところで近江メソッドの表番組で仕込んできたことばの軍団がワーと流し込まれるという寸法ですね。 この時全文式アウトライン法などでしたためていく。全体の組み立ての中で行きどころのないいい加減な文章など自分でわかるところがみそです。

外山:デリバリーについても考えなければなりません。でも多くの人が抱いているデリバリーというお飾り的なものが別口にあってそれをチョコッといじれば習得できるというマニュアル発想を捨てることですね。

宮崎:縦割り発想を捨てるのですね。結局〈それを言っているときに心の中では実際何を考えているか、それを言っているときに体は何をしているか〉というヴィットゲンシュタイン的問いかけの中で考えれば、デリバリーというものだけが本体と切り離されて存在するのではないことぐらいわかることです。言語による語りの組み立ての中に身体的な動きも表情も入り組んでいるのであって、広く大胆に、それでいて細やかに想を巡らせる必要があります。

ということは外山先生が言われた「場」を創りだすExtemporaneousの能力も横につながっているわけです。
たとえば、人体の解剖図についてはパワーポイントを使って説明することはあってもいいでしょう。聴衆空間は固定しているわけではない。蓋をあけてみたらデッサン帖をもって画学生が大勢入ってきた。コミュ二ケーション力とはこういう想定外の場面に対しての非言語的、言語的対応力に反応し目的達成のほうに全体を持っていくことができるかどうかです。語り手はやおらパワーポイントから離れ、自慢の豊満な裸体をベッドに投げ出す。そして準備していた言語テキストは場合によっては最小限度に抑える、あるいは要約する、あるいは敷衍する…、これが即興性、Extemporaneousです。「場」を創りだす能力です。

結局All-inclusive Speech and Drama畑の種々の訓練からじわりと養われていくのですね。ことに演劇ですね。普段から鑑賞している、ミュージカルのCATSは、ステージから観客をみているばかりではない。客席に潜り込んだり、背後に潜んでいたりするなということをコミュニケーション的に捉えようとする癖を日ごろより養っていくことが大切です。

同時に自分自身をも活性化している。バレエダンサーが高くジャンプしようとするのは、地上の制約を離れ神に近づこうとする意志のあらわれであるといった美学者がいました。日本舞踊もスペイン舞踊もそれなりの動きを通して人間の可能性を追及してきたと考えていいでしょう。外山先生は社交ダンスもされる。しかし同時に先輩には渡哲也がいる大学空手部の有段者でいらっしゃる。三島由紀夫にも通じる美学ですね。素晴らしいですね。人間はそれぞれかくも美しくなりうるという努力をしてきたわけです。これって自らのプレゼンですよね。結局は温故知新。コミュニケーション力の知恵と訓練は全包括的スピーチ訓練の中に内包されている。そしてこれを通して“かたる肉体、考える頭、感ずる心”をつくっていけばいい。そのためにあくなき努力をしていけばいいということになるのではないでしょうか。

外山

最後に 余剰学習とサレンダーヴァリューのこと

宮崎:今まで言ってこられたことも含めて、「近江メソッド」でこれから英語をやってみたいと思っている方に、最後に何か一言といったらどうなりますでしょうかね。

外山:「近江メソッド」による英語学習は、その人が今、どんなやり方で英語を勉強していたとしても(または、使っていたとしても)、最終的に「そこに戻ってくる」究極の学習法です。ただし欠点もあります。近江先生には叱られるかもしれませんが…(笑)。

宮崎:それは何でしょう。

外山:それは「楽ではない」ということです。誰にでも、どんな段階からでも始められますが、継続して練習し完全に自分のものにするには、楽でないのはあたりえまです。本当に大変な道のりを乗り越えてゆかねばなりません。決して「楽ではない」ということを勉強するかたたちにはいいたいですね。

宮崎:楽でないのは近江メソッドに関する限りあたりまえすぎるほどあたりまえのことです。「近江先生に叱られるかも」なども無用な気遣いじゃあないかしら(笑)。だいたい近江先生は楽しく勉強をしましょうという世界の住民ではありません(笑)。マザーテレサに向かって、「こんなことをいっちゃあ叱られちゃうかな、愛というものは大切なことだと思うのです」というのと同じことです。

外山:おこがましいのですね。

宮崎:おこがましいのです。でも厳しさには理由がある。それは 別にいわれたからするという学習でないむつかしさです。作品の心がこちらに呼びかけてくるのを辛抱強く待つ、それは現実時間を超越した観念時間の交差すらある一種の行(ぎょう)のような厳しさでしょうか。近江先生もよくいわれるoverlearning(過剰学習)の論理です。これでいいと思った時点からどれだけ余計にやるかということで差がついてくる、そして学習を中断した時点で残っているもの、これが surrender value(解約価値)、ネットの実力であるという考えです。

宮崎:ついでに私のさきほどの「英語をやってみたいと思っている方」も撤回しておきます。ほとんどの日本人は学んだことがあるわけですから。これに対し「あれは受験英語だったので別だ」と言う人がいたら、英語に受験も会話もないのだということを近江先生は正されます。近江先生の口から出る英語は、模擬試験や東大入試の読解英文の表現やロジックを、そのまま語りとしてトークの中に展開されますからね。近江アカデミーはグレードアップした本当に英語らしい英語を目指して各自が努力する世界です。

外山:近江先生は表面的に厳しいというというより、むつかしさを奥深くから感じさせてくれるので刺激的な知的、情緒的、審美的、時に官能的な刺激が強くて、喜びなのか、苦しみなのかという世界が確実にあります。でもそこから先はそれを感じ取った学習者が自らの佇まいを正す時の緊張感といったものではないでしょうか。

宮崎:だから外山先生が、2時間ほどのレッスンで葉山から逗子まで意識を失っていたとおっしゃいましたが(笑)、近江先生の方も数日前から葉山入りして、その意味では先生にとっても同じ緊張した空間と時間の中に包まれているような気分の中に浸っているというところでしょうかー。

外山:そうですね。この間、その先生と名古屋から来られた鈴木先生と栃木県から中川先生と東京の外山先生と近江先生の男性4人が、レッスンを終えてバス停に通ずる坂道をおりていくときについに雪が降り出したそうですね。寒い、厳しい、しかし何と充実した一服の墨絵をみるような体験だったよと近江先生は話しておられましたよ。

外山:要は自分が感ずる厳しさでなければダメなんでしょうね。誰が誰に対して厳しいのではない。取り組んでいるところのものが厳しいし、それに取り組む人が自分に対してどれだけ厳しいかということですかね。

宮崎:近年の学童たちのお稽古ごとの仕方のようにバレエが終わったらと思ったら振り返ることもなく今度は塾というふうな切り替えの良さは考えてしまいますね。

外山:それでは本当の力は育ちません。誰にいわれるというのではなく、自分で居残って余計にやっていくという姿勢です。でもこれって、当たり前のことですけれどもね…。

宮崎:もうひとつ、外山先生はやり遂げたときの「喜びは格別」ということをおっしゃっていますね。

外山:はい。でも、それもまた当然ですよね。語学が「楽して簡単に身につく」方法など存在しないのです。「すぐに役に立つ」ものは結局「すぐに役に立たなくなる」ものです。本当の力を身に着けたければ、本当の努力をしなければなりません。「え~、この先まだやるの~」と言う人もいるでしょう。でも、ちょっと考えていただきたいのです。自分の母国語だって、本当に身に着けたければそれなりの努力が必要なのではないでしょうか。いわんや外国語においておや、ですよね。語学は「一生かけて学び、一生かけて身に着ける」ものなのです。どうせ一生かかるものなら、本当の、正しい道筋に沿ってやるのが最終的には一番近道なのですよ」…。

宮崎:まさにその通りだと思います。ただ…。

外山:ただ?

宮崎:「先生英検準2級とれました」「よかったな、今度は二級だな」「え?ムリ」「おまえならとれる」とかなだめたりすかしたり、発破かけたりという麗しき学園ドラマの範疇になってしまうのではないかという気がするのですが?
もちろんそういうこともそれなりのモーチベーションにはなると思います。けれども、いわゆるテストや点数や評価や人間の伸びを数値で測ろうとすることが、それがイコール教育であると思わせている教育を受けているうちに、短いタイムスパンで喜んだり悲しんだり、もうマスターしたと見切りをつけたり、免除や修了書をほしがったり、本質とは全く離れたところに価値を置き「喜び」を感ずるように餌づけされ、変な趣味を仕込まれてしまっているのではないかと思うのですが。
近江ワールド、近江メソッドをめぐっての喜怒哀楽は英語という生きたことばの活動そのものに伴う本質的な喜怒哀楽です。私は高村光太郎と智恵子の「智恵子抄」のリーダーズシアターを高専の鈴木元伸先生と解釈表現する過程で、お互いの空き時間をすり合わせて練習時間を確保しました。ある時などは先生に岐阜の私の家の近くの相川まで来ていただいて河原で泣く千鳥の声と情感を組み入れて作品を読み上げる練習をしました。

外山:情感の高めていく緊張感、そしてこの一行の意味が掴めた!というような喜びを目指ている…リーディングをしている時にも、忘れてはいけない態度ですね。

宮崎:「近江メソッドは引きずる世界です。いえ、引きずらなくては駄目な世界です。未練を肯定する世界です。恨みを持続する世界です…。じ・ぞ・く・す・る・せ・か・いです!私のこの目をみてください…。

宮崎

外山:(一瞬引きながら)…
近江ワールドは、これだけやればこれだけの結果が出るというケチな世界ではない…ということですね。

宮崎:英検一級とったから今度は国連だとか、テスティングとかそういう狭い世界で一喜一憂する栄華の巷を低く見て、常に高みを目指そうとする気概や情感に満ち溢れている世界です。

外山:…世間では能力などといいます。でもその能力とは時間内で評価、測定できる検定試験が対象とするproficiencyの世界にしかすぎません。

宮崎:一方近江ワールドの関心事は長期的に体内で育っていき、ある時点では全く伸びているようには見えなくても伸びていて、やがて爆発的発症”も期待できるようなgrowthの世界です。

宮崎:およそ働き方改革などとは縁がない世界みたいです(笑)。

外山:ハッハッハッ! そういう柔軟性も許す働き方改革ならいいのですよね。あくせくしなくても伸びていくものは伸びていくんだから。でもやっぱり少しでも楽をしようという改革はNGですね。

宮崎:納得いくまで時間がかかっても追及することも邪魔しない改革です。もちろん実際の生活空間ではみなそれぞれのことをしていていいのですが、心のある部分は常に覚醒している。現実界の制約を離れて頭も心も体、想像力を動員して受信を続け、ことあるごとにつぶやくように創造発信しながら発信力を磨いているー。

外山:国の方針もあって近年、多くの人が大学院に行く傾向すらある。でも言語を学習しながら、それに伴う満足感もどこかずれているところがあるようです。高学歴になればなるほどダメにさあせられている面すらあるーと近江先生は嘆いておられました。

宮崎:♪今頃は統計漬けになっちゃって、英語活動とは縁遠い世界にいるんだろう…♪(「青い面の人形の節」で)(笑)。

外山:はい、そういったところで、そろそろお開きにしましょうか。…それにしても宮崎さん、あなたの話を聞いていると…あなたは…いったい誰…

宮崎:(…お雪の含み笑いをしながら)ウフフフ…。あら、外山先生、雪が降ってきたようですね…! フフフ あれ江の島ですよね・・・あの日もこんな感じでした…。

外山:…ナッチャン、また、また、僕は何かこわくなってきました。

宮崎

左端 宮崎菜摘(近江アカデミー練習風景)